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Archive for the '介護体験談' Category

「老人をかかえて」大阪府支部版
「ふれあい・おおさか」(2001年3月号)より

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posted by admin 2月 19, 2008  11:02 AM
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「老人をかかえて」高知県支部版
「高知県家族の会だより」(2001年3月25日 No.119)より

高橋 昌利

家の庭に一本の桃の木がありました。7年前のことです。植えてもう10年程になっていました。私が日曜市で買ってきて植えたものですが、2、3年前から実をつけ始め、楽しみにしておりました。

その歳もたわわに実をつけて色づいてきておりました。

ある日の午後、同じ団地で近くに住む男性が突然、妻に「家に来てくれ」というのです。「何のことですか」と、私が聞くと、「お宅の奥さんが、中学1年の私の娘が桃を盗ったと言って、あらぬ疑いをかけ、娘が泣きながら帰ってきた。娘は盗っていないので、謝りにきてくれ」と言うのです。そして、妻を連れて行こうとします。

あまりにも意外なことで、ショックを受け、私も妻と一緒にその家まで行きました。妻は一言もしゃべりません。私自身は現場を見ておりませんので、妻は自分の見た本当のことを言ったのか、妄想なのか分からず、ただ謝るしかありませんでした。

なんとも後味の悪いことになってしまいましたが、それが後で思えば、妻の痴呆のはじまりの頃で、私もまだそれには気付いておりませんでした。後で、痴呆と分かってきたとき、その男性も、やっぱりそうだったかと思ったに違いありません。

そんなことがあって、すぐその桃の木は根こそぎ切ってしまいました。いつまでも忘れることのできない思い出です。

posted by admin 2月 08, 2008  09:02 AM
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「老人をかかえて」埼玉県支部版
「ふれあい」(2001年2月25日)より

平成10年10月にアルツハイマー病と診断された。夫は58歳。仕事を辞めた。私も一緒に辞めた。

日常は会社を辞めただけで身体が悪いわけではないので退職者夫婦の生活だった。

病名を告げられたとき、ドクターから「車の運転は止めてください」といわれた。だが夫は当然のように運転を続けた。何度も止めるように説得したが、その度に怒りで血圧が急上昇して夜間の救急外来診察の世話になることもあった。私も助手席に座って気をつけていればと、運転を止めさせることによって生じるトラブルを避けている状態だった。

11年10月、エンジンをかける動作がスムーズにいかないように見え始めていた。長女の家へ孫を送った帰りに、不安を感じ「私が運転しようか」と声をかけたら、夫は私の腕を振り払って運転席に座った。バイパスに出て、思わず「あーっ!」大きな声が出た。車が蛇行している!夫は全身硬直してハンドルを握っている。足を引っ張っても鉄のように硬い。対向車が目前に迫り、大きな衝撃を受けて車が止まった。

一瞬の間だったと思う。車は縁石に激突し、ガラスもボンネットも飛び散って、蒸気を吹き出し前部がペシャンコにつぶれていた。

あの光景は、今も私の脳裏に切り取った絵のように焼き付いている。

私がまちがっていた。仕事も辞めざるを得なかったので、せめて車ぐらいはまだ、と甘く考えていた。車を発進させるまでの一連の手の動きがあやふやになってきたかな、と感じ始めたときは車の運転はできない、ということなのだ。

車の運転をするかしないかは、アルツハイマー病では難しい判断といわれているが、初期のアルツハイマー病の患者には運転能力はなくなっているとはっきり認識させた方がよいと思う。

私たちの事故は自爆ですみ、人身事故にならなかったのが不幸中の幸いだった。

この事故直後に「夫は車の運転はしない」という約束で、20日後に同型の車を買いました。その後何回か、運転をしたいというトラブルはありましたが、現在はすっかり諦め、助手席が指定席になりました。

こう書いてきて、自分の矛盾に情けなくなります。車の事故から1年余も過ぎているのに介護保険や障害の認定に踏み切れません。介護は孤独な日々、大きな不安に潰されそうになりながらも、貴会の会報を心待ちにするようになりました」。つたない文章ですが、車の運転に悩んでいる方に、何かの慰めになればと思い書いてみました。

posted by admin 9月 10, 2007  03:09 PM
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「老人をかかえて」奈良県支部版
「なら」(2001年2月25日 No.131)より

K. Y.

主人の発病からもう10年がたちました。

今はN病院の長期療養型に入院して2年になります。皆様の手厚い看護のお陰で仏様のような穏やかな顔で落ち着いて過ごしています。もう歩くことも話すことも出来ません。食事には全介助を要しますが食欲があり体力が維持されています。手を触れるとしっかり握り返してくれます。まだまだ感情はしっかり残っています。

主人と私は高校の時に知り合い、結ばれ、会社を経営し苦楽を共にして来ました。まじめで優しい夫でした。その夫が専門医からアルツハイマー病と診断されたのは10年前、夫47歳の時でした。まだ学資の要る3人の子供のためにも病気の夫を支えつつ仕事をしておりました。数年後、徘徊が始まり攻撃的な症状が現れ、怒鳴ったり、物を持ち上げたり、鏡やガラスを見て興奮するようになりました。私は、主人にどうすることも出来ませんでした。いつも主人のことで頭が一杯でした。どうしたら病の進行を押さえる事が出来るのか、どのように世話をすればよいのか、あれこれ夢中でした。

ある日、息子から「お母さんは一生懸命すぎてお父さんは、かえってしんどいんや。もっとリラックスして、その時を自然のままに介護する方がお父さんも喜ぶよ。」と言われました。良かれと思ってすることが、かえって主人を疲れさせるかもしれないと反省し、それ以来自然に付き合うようになり私の顔も柔和になったように思います。

今、私の一番の楽しみはフラダンスです。家族の会の世話人さんのMさんに勧められて習い始めました。入院患者さんに披露し喜ばれ、ハワイアンのメロディーに心うきうきです。以前はスーパーで二人づれのご夫婦を見てもうらやましく、「何で私の夫がこんな病に冒されて、」と思うとつらくなりました。一番つらい時に「家族の会」を知り、慰められ学び励まされました。友人たちの優しい思いやり、近所の人達の助け合いの輪に涙し、家族に助けられ私は幸せ者です。

発病した主人と一緒にまわった三十三ケ所巡りと八十八ケ所巡りの残りを「主人がいつまでも元気でいますように」と祈りを込めてお寺参りをしています。

私は夫に「あれもこれも、みんなお父さんのお陰です。お父さんありがとう。今でもずっと“大々好き”です。」と心から呼びかけています。

posted by admin 9月 08, 2007  10:09 PM
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「老人をかかえて」長野支部版
「家族の会長野だより」(2001年1月25日 No.246)より

飯田市松尾久井 御堂島 富子

先日、ある方に介護当時の事を尋ねられ自分の中で記憶がうすれたのでデイサービスとの連絡ノートを引き出してみました。

7年間の交換ノートは8冊にもなっていました。最初から読み返してみると今ではなつかしさと、良く頑張って介護したと我れながら感心してしまいました。

介護の最中では、わざわざ介護日誌を書く時間がとれず、デイサービスへ行く前夜、一週間分の出来事、心配事、依頼する事等記してお願いしました。デイサービスからも折にふれ返事をくれました。このノートは私の介護の証であり、宝物の一つとなって大切に保存しています。

A会員の皆さま、日々ほんとうにご苦労様です。忘れてしまいたい様なつらい出来事もあると思います。私もありました。そのことは記さなくても鮮明に記憶されています。しかし、日々の些細な出来事は「のどもと過ぎれば」の諺の様にうすれていきます。記録しておきますと自分だけのすばらしい介護史ができると思います。健康に留意され頑張って下さい。

posted by admin 9月 08, 2007  10:09 PM
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「老人をかかえて」東京都支部版
「きずな」(2001年1月25日 No.148)より

Y. K.

21世紀の日本は、世界に類をみない高齢化社会を迎えるといわれています。
一つには、日本が長寿国である事、又更に少子化が進んでピラミッド型の年齢構成が崩れてきたせいとも思われます。
人間の老化と痴ほう症の解明はますます急がれ、私たち「家族の会」の存在も介護家族の心の支えとして重要さが増すと思います。

思い返すと父が痴ほう症になった事は、母にとり大変なショックだったようでした。
私達一家は両親と同居して、介護を手伝いましたが、今でもある情景が目に浮かびます。
母は、歌が好きで、「早春賦」とか「夏は来ぬ」を歌う事がありました。
そんな時、父の険しい顔が一瞬、和らいで穏やかな顔に戻るような気がしました。

そんな母の血を引いたのか、私も若い頃から歌が好きで、コーラスグループに所属していたのですが、子育て、介護のサポート等で20年以上離れていました。
歌といっても、私の好きなジャンルは童謡唱歌で、最近になりそのようなサークルを見つけました。
懐かしい子供の頃の歌を歌うと、すでに他界した父の事、その後を追うように逝った母の事を思い出します。

ここでは、ただ、歌うだけではなく、その歌の時代背景や、作者の人柄、その歌のモデル等の話を講師がしてくれます。
例えば皆さんよくご存じだと思いますが「赤い靴はいてた女の子…」と歌う女の子はモデルがあり、実はその子はきみちゃんといい、病気の為渡米出来ず亡くなりました。後に「きみちゃんの赤い靴」という歌が作られた等のエピソードも聞き、作者の気持ちを汲んで歌うと違った味になるような気もします。
童謡、唱歌を懐かしく思う世代は限られるように思いますが、私にとっては両親、とりわけ母への思い出と重なり、いくつになっても大切なものと思っています。

現在、介護の真っ最中の方には、趣味の話など顧みる余裕は持てないかも知れません。
又私自身その時は母と共に父の状況に一喜一憂しておりましたので、ゆとりのない生活はよくわかります。
しかし今にして思えば、母と一緒に口ずさむ歌が、私達家族に少しの勇気を与えてくれたと思えてなりません。

皆さんもたまには、童謡、唱歌を口ずさんでみませんか。
私の父のように、つられて心の琴線にふれることがあるかも知れません。

又介護する方の心のゆとりは、この病気の介護をする上で、介護される方への、いたわりと優しさとして、いい影響をもたらすのではないかと思っています。

posted by admin 9月 08, 2007  10:09 PM
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「老人をかかえて」大分県支部版
「赤いりぼん」(2001年1月25日 No.60)より

桑野 兼市

人々はこの世に生まれてくると、それぞれの運命を背負って成長して行くと言う。

私の妻も後半は、避けることのできない運命が待っていたのか、不治の病、アルツハイマー病と診断を受け、私は一瞬愕然となった。(平成5年8月)

二人揃って老後を楽しく暮らそうと語り合った、ささやかな夢が、大きな雪崩のように流された。只、運命のいたずらと言うにはあまりにも辛い、苦悩に満ちた道ではないか。数年間、医者通いをつづけたかいもなく、こんな結果とは、夢にも思いませんでした。現実の厳しさに、打ち砕かれそうな日々を耐え抜き、妻を支えていかねばと…。

病気の進行は早く、社会生活は無理でも日常生活は、テンポは遅いが私がついていれば何とかできた。二人三脚の生活が始まる。朝の散歩と運動、気晴らしを兼ねて神社仏閣参り、スーパーの買い物と、共に行動する。ところが、レジの前で支払い中に妻がいなくなった。徘徊のはじまりです。(平成7年3月)

その後は、私の隙を見ては徘徊を繰り返し、親戚や近所の方々の応援を得ては探し回る日々がつづきました。名札と電話代の入った袋を持って、気の向くままに家から逃げ出します。妄想にかられて、何かを求めて歩き続けるため、車の事故に遭うのが一番心配でした。

在宅介護で24時間の気配りと、私一人での社会生活のつとめ、家事、日常生活の切り回し等、だんだんと疲労がたまり、ついに体調を崩し、民生委員の勧めで妻の施設入所を決めました。(平成8年10月)

うつ病併用の痴ほう症のため人前に出るのが苦痛を伴う妻が、施設の大勢の仲間と共同生活に早く溶け込んでくれるようにと、祈るように願っていました。優しく、親身になって介護してくださる寮母さんたちのおかげで、落ち着いた毎日を送っています。

現在要介護度5で、車椅子の生活ですが、私が会いに行くと、笑顔で迎えてくれます。この笑顔が私にとって何よりも大きな幸せです。

「家族の会」の皆様方、いつも励ましのことばや支え合うことばを、ありがとうございます。

posted by admin 9月 08, 2007  10:09 PM
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